Praise the Lord
うたごえきっさ報告記

2017年11月4日(土)14:00~16:00


 11月4日(土)の午後、今年もついに(ちょうど1年ぶりです)、石部信也先生を中心に音楽プログラム「うたごえきっさ」がもたれました。ゲストハウス(旧家庭科センター)のダイニングに、大人18名・子供7名の大家族が集い、アットホームな雰囲気の中で賛美のひとときを過ごしました。
 前半は、石部信也先生率いるトリオにより新曲4曲が演奏されました。今年はなんと、紅一点の女性ヴォーカリスト・東晴香さんを迎えて、華やかなハーモニーを聴かせてくださいました。

 最初の2曲「いつでもイエスの愛を」「トマトのように」は、松岡輝先生の作詞作曲(PFCキャンプのときに作られたそうです)、
後の2曲「気落ちしたままで」「見つけられますように」、は石部信也先生がある方に作詞を依頼し、その詞に曲をつけたというもので、すべての詞と曲が本当に素晴らしく、いまだに印象的なフレーズが頭の中に響いてきます。
 後半は、昨年と同様「キッズフレンズ」を皆さんで一緒に賛美しました。第1曲目は、僭越ながら私が、かの名曲「Catch」を選ばせていただきました。その後は次々と歌の番号があげられ、日本語だけでなく、英語詞で歌う曲もありました。とくに印象的だったのは、117番「はい、主よとこたえたい」をリクエストされた方が、その曲にまつわる心温まるエピソードをお話ししてくださったことでした。
 途中で、お菓子とお茶、ジュースをいただきました。演奏を続けてくださっていた演奏者の方々に申し訳ないと思いながらも、子どもたちと私を筆頭に、若干「うたよりだんご」になっていました。食べて、飲んで、聴いて、歌って、笑って、くつろいで、とまさに安息の時間となりました。
 家庭会では次の企画も準備しておりますので、ぜひ皆さんご参加いただければと思います。
(家庭会・藤田 悠)


広島三育学院教会40周年に寄せて

安息日の午後の活動
   大黒 毅三

 開校当時、中学校では地域伝道が安息日の午後の活動の中心でした。老人ホーム訪問や独居老人宅訪問、そして子供聖書学校(子羊クラブ)等があり、私も深見の子羊クラブに中学生といつも出かけていました。
 深見地区の3〜12歳の子供たちが毎週10人以上集まってくれました。賛美歌を歌ったり、紙芝居を見た後、全員で隠れん坊や鬼ごっこ等をして遊びました。それはそれは楽しい時間でした。
 このことが縁で、今でも深見の数人の方々と家族ぐるみの交わりが続いています。個人的に親しくなれた事や楽しい思い出の中に福音の種蒔きが出来た事は本当に幸せです。そしてこのことが、地域の方々が好意を持って三育を理解していただける一つの契機になったと、神様に感謝しております。
 実は開校当時、深見地区では三育の開校に立地場所と宗教上の理由で反対された方がおられると聞かされていました。でも私達は“だからこそ”、主の福音の素晴らしさと主にあることの喜びは、きっと理解していただけるはずと信じ、更には袖ヶ浦キャンパス閉校時の総括「ここでは地域伝道が不十分であった。広島ではしっかりやりましょう」との、三育のあるべき姿の確立のための、私達の覚悟の表明として本気で地域伝道に取り組んだことを思い出します。
 もちろん、これは中学校の一つの取り組みでしたが、新垣院長自ら率先して町のあらゆる方々とのパイプを繋ぎ拡大され続けられました。地域の農作物を食堂のメニューで活用したり、町内の幼小中高の先生方との教育研究会での交わりを盛んにし、まさに大和町にとって三育の存在は無くてはならないものとなり、食堂での「クリスマスバンケット」の町民の参加者の多さと会の盛況ぶりも、私達の地域伝道意識の一つの成果だと思っております。
 40周年を迎え、「社会環境の激変は終末そのものを明示している」と思える昨今、“だからこそ”私達はこの節目の年に何を成すべきでしょうか。式典は終わり、時は刻みを加速し始めました。この節目に確り立ち止まり、ひざまずいて何を心に刻むか、これこそが節目の意味です。
 神様の物尺で測る現状への評価と総括。そして、これからの目標と展望を御言葉に重ねて委ねる信仰行為こそが、教会と学校を主の栄光で輝かす唯一の方法だと確信しています。
 過去は手本にはなりませんが、主の導きと主の業を担う先輩達の逆境で残した伝道者としての本気の覚悟と行動だけはしっかり見落とさないようにしたいものです。

歴史的に貴重そうなもの   尾上 史郎

 1977年に日本三育学院が広島に移転して来たときは、私が高校2年生なる春でした。日本三育学院の最後の卒業生でもなく、広島三育学院の最初の入学生でもない私たちは、しかし、この移転に関しては、実働部隊としてとにかく働いたという記憶があります。理科室に千葉から持ってきた荷物を運びこみ、多くのものをしばらくは使わないだろうからということで窓際の洗面台の下の引き戸の中にしまいましたが、8年後、私が理科教師として母校に戻ってきて、理科室を整理していた際にもう一度自分でその荷物を引き戸からとりだすことになりました。
 運び込んだものの半分くらいは、いつ使うか何に使うのかもよくわからないような、しかし「歴史的には貴重そうなもの」が多くあったのです。千葉の地で52年間過ごしたということは、そこに染みついたもの、そこだからこそ意味をなしていたものが多く存在していたのだろうと思いますが、ところ変われば、その場所に合わせて必要なものとそうでないものが新たに蓄積されていくことになるのだろうと感じました。
 広島の大和キャンパスにおいての40年も同じです。この地だからこそ、新しく蓄積されてきたものに囲まれて学校もこの教会も成り立っています。天国という永遠の御国に入るまでの間、この地上のいたるところに私たちは遣わされていくでしょう。しかし、広島三育学院の学校と教会の次の40年は、やはりこの場所にあるからこその使命を果たしていかなくてはならないのだと思います。
 たとえそれが先の天国においては、もう何のために使ったのか分からない「歴史的には貴重そうなもの」となっているようであったとしても、それこそが広島三育学院が今、大和に存在している意味であり、使命であるにちがいありません。