三育学院に行くまで

投稿日: Sep 20, 2009 3:6:54 PM

(「はこぶね」169号より、平尾慧美 記)

「人間死んだらどうなるの?」十一歳のとき母と死別したときに、わたしが最初にもった疑問でした。

父は、母を失ったわたしを大切に育てることを条件にして、父の友人からの紹介で、ある名家でお子さま付きの働きをしていた女性と再婚することにしました。わたしにとって、二番目の母親というのは、童話や少女小説からのイメージで、非常に悪かったのです。大人たちが決めてしまったことですから、わたしは本当のお母さんと思って親しんでいこうと決心しました。

しかし、新しい母との生活は、わたしにとって、とまどうことばかりでした。義母は,一にも二にも、お金が大切な人でした。ものの考え方は、すべてお金が中心でした。そして、義母が言ったことが、わたしの心を釘刺しました。「わたしは本当は子供が嫌いなのだ。」そしてさらに、義母の計画は、「慧美に金儲けのうまい婿を迎えて、わたしの老後は左うちわ」と言うのでした。

これに対して、わたしの疑問はつぎつぎと広がりました。「血のつながりのない親子は、どうして、本当の親子のように、自然に湧き出る愛情がないのか。」「どのようにすべきか。」これらの疑問は、いつもわたしの頭のすみにありました。

高校生になって、五人の友人たちとともに「読書会」をつくりました。国語の先生に、会の顧問になっていただきました。童話、世界文学、日本文学などを読んで、先生の解説を聞いて、みんなで話し合う楽しい会でした。けれども、わたしの疑問には答えはなかったのでした。

わたしにとって、中学・高校は、それは暗い学生時代でした。しかし、そのなかで、すばらしい友を、神様がお与えになりました。それは、倉沢喜美子さん(現 渡辺秀一氏夫人)です。倉沢さんは、あるとき「預言の声通信講座」を始めました。そして、わたしにもご紹介をいただきました。そのうち、倉沢さんと二人で、天沼教会の日曜講演会に出席するようになりました。そんななかで、わたしの子供のときからの多くの疑問に、正しい解答が与えられていったのです。そして、安息日を守って、教会に出席したいと思って、そのことを会社の上司に手紙を書いてお願いしました。しかし、これについて直接に返事はありませんでした。ところが、その週の金曜日の帰り支度のときです。わたしの目の前に、一通の休暇届けが差し出されました。それにはすでに課長と係長の名前と印が押されていて、わたしの署名と押印だけになっていたのです。わたしの祈りと願いが聞かれたのを知りました。こうして、わたしは喜び勇んで、四月の第一安息日に天沼教会に出席することができました。

次の週の金曜日、休暇届けを書いて課長のところに行きました。課長は、労働組合長と激論の最中でした。それは、石原慎太郎氏(現 東京都知事)のことでした。石原氏はすでに前年の秋に入社が決まっていました。その後、彼が芥川賞を受賞したために、会社は彼を会社側に移すと言うものでした。わたしの勤め先は、東宝撮影所の人事課でした。わたしは、その激論の最中に、おそるおそる休暇届を差し出しますと、課長はポンと押印してくださいました。つぎの金曜日にも、またつぎの金曜日にも、なぜか、わたしの退社時刻にきまって、課長と組合長は激論していました。わたしはその都度印をいただいて、土曜日の休暇をいただきました。しかし、安息日を守って、この会社に残る道は開かれませんでした。そんななかで、神様は、わたしが三育学院に行く道を開いてくださいました。

学費の準備のないわたしは、初め聴講生として二つの聖書のクラスに出席して、そのほかの時間は、宣教師の外間先生の家で働いていました。バプテスマを受けたとは言え、クリスチャン生活について何もわからない私を、外間先生ご夫妻は暖かく迎え入れて導いてくださいました。わたしは先生のクリスチャン・ホームで、たくさんのことを学ばせていただきました。わたしは心から感謝しています。

信仰をもつことに対して、絶対反対であった義母も、のちほど「おまえは(兄弟のなかで)一番いい結婚をしたね」と言ってくれました。これは、お金儲けに縁のない牧師との結婚も、わたしの信仰も、「よかった」に含まれていたと思います。「わたしが死んだら、いっさいを弘介にまかせるから、キリスト教でやっておくれ」と言って、八十三歳で眠りにつきました。