神の家族の中で

投稿日: Sep 20, 2009 3:13:51 PM

(「はこぶね」190号より 石橋幹子記)

《前編》 昨年の11月8日長男からメールが来ました。「バプテスマの誕生日おめでとう。何歳になりましたか?」「え?なんで?」息子が私のバプテスマを受けた日を知っているのかとビックリしました。私は子供達がバプテスマを受けた日にはカードを書いていますが、私のバプテスマを受けた日におめでとうと言われた事はありませんでした。息子が言うには「お爺ちゃんが亡くなった後、書庫にあったバークレーの本を貰ってきた。その本の間にアドベンチスト・ライフが挟んでありバプテスマを受けた人の名前の中にお母さんの名前が載っていた」という訳でした。父にとって私は最初の子供であり、バプテスマを受けた時本当に喜んでいました。私の名前が載っているこのアドベンチスト・ライフを大事に持っていたのだと思います。

私は3代目のアドベンチストで父方の祖母は熱心なクリスチャンで、よく伝道し祈る人でした。元々メソジストの信者で、九州の久留米に居りましたが、伯母を東京の大学に進学させるため上京し、1ヶ月の滞在の間に友達の家庭集会に出席し、そこで国谷先生によってセブンスデー・アドベンチスト教会へと導かれました。久留米に帰った時、駅に出迎えた方々に真理を知った喜びに満たされ、「土曜日が本当の安息日です」と話したとの事です。昭和7年にメソジストからアドベンチストになりました。メソジストの他の教会員にも是非この喜びを伝えたいと熱心に伝道し、半数の方々を導いたそうです。若い頃からお花を教えながら伝道し、家庭集会や聖書学校を開いて、年に1度のクリスマス会には家を開放して大人と子供を合わせて200名位の方々が集まって来たそうです。私が中学、高校時代、祖母から「聖書研究に一緒に来て讃美歌を歌ってください」と頼まれよくお供しましたが、あの頃もう80歳位だったと思います。祖母が家に来ますと、一緒の部屋で寝起きをし、朝布団の中で祖母の祈っている声をよく聞いたものです。「天の御神様、おはようございます」から始まって、子供達の名前をあげ、「俊夫、謙吉、雅子、園子をどうぞ救われる器としてお育て下さい。」その後、子供達の連れ合いや孫達の名前をあげ、あるいは病気の方、問題を抱えておられる方のためにも祈っていました。101歳で亡くなりましたが、99歳の時に祖母によって導かれた方々が集まって白寿のお祝いをして下さいました。その席で十戒をスラスラ暗唱したそうです。そして必ず一人一人に「どのような伝道をしていますか」と尋ねていたようです。

私の父もよく祈る人でした。毎朝聖書を読み、20分から30分祈っていたと思います。朝目が覚めると、母は台所に立っていましたが、父は布団の上に正座して額にしわを寄せ、膝の間に両手を入れてさすりながら祈っている姿でした。まだ幼かった弟がよく父のお祈りが終わるまで膝にじっと座っていました。「おとうちゃまは、しゅんまっしぇん、しゅんまっしぇんて・・・」とよく言っていましたが、恐らく神様に「すみません、すみません」と懺悔しているように見えたのでしょう。

父は福岡県の久留米で牧師として働いていましたが、千葉の三育学院に教師として来て欲しいと言われ、牧会をしていたかった父を母が説得して千葉の日本三育学院へ行く事になりました。私がちょうど小学校に入る年でした。1年の時は全校8名に1人の先生で、教室は女子寮の1室でした。その時の6年生が以前神戸アドベンチスト病院院長として働いておられた八浪先生です。神戸の病院にいらした頃、看護師をしていた私の娘が回診に一緒について行くと、昔からよく知っている方に、「『この子のお母さんが1年の時、ピーピピピとよく泣いてね』と言われて恥ずかしかったよ」と娘に言われ、私は覚えていないのですが、きっと優しいお兄さんでお世話になったのだと思います。

当時、日本三育学院の校内に宣教師住宅が3軒あり、常時3家族の方々が居られました。子供達も小学校に来ていて外人小学校、日本人小学校と分かれて勉強し、遊ぶ時は一緒だった時代もありました。彼らはいつも腰に水のボトルを下げていて、1日に飲む水の量(決められていた)を飲んでいました。また、冬はよく子供達がストーブで暖をとるために松ぼっくりを拾っていました。クリスマスになると宣教師の方がサンタクロースになって、私達子供のいる家々を回ってプレゼントを下さいました。あの頃は自転車の時代で、車は外人の方が持っている位でした。お産となると、夜中に車で千葉から東京の杉並の東京衛生病院まで連れて行って下さいました。高速道路も無い時代でしたし、悪路と言われる舗装されていない道もあったので時間もかかった事と思います。宣教師の方の家に招待されたり、菜食料理を教えていただいたり、子育て等お母さん達は、クリスチャンとしての生き方をいろいろな面で教えていただきました。娘が生まれてから、やはり父もそのような気持ちで育ててくれたのだと思います。

家庭においては、毎日朝食前に家族が集まって礼拝し、神様のみ言葉をいただいて一日がスタートし、夜は父が毎晩枕元で聖書の話しを聞かせてくれました。安息日はイエス様と交わる特別な日だと教えられました。金曜日の午後は安息日を迎えるための備え日です。家の中を片づけ掃除をし、教会に着ていく服にアイロンがけをし、家族全員の靴をピカピカに磨いて玄関に揃えて並べ、入浴もすませて皆でサンセット礼拝をしました。サンセットを知らせる学校のチャイムが鳴り終わる頃には回りの家々から讃美歌が聞こえてきました。空気までが清められているように感じたものでした。特に楽しかったのは金曜日の夜でした。ゆったりとした気持ちで夜遅くまで家族の交わりを楽しみました。土曜日のお昼は食後にお菓子のようなものが用意されていました。その頃は今のようにお菓子が豊富に食べられる時代ではありませんでしたので、子供達に安息日の楽しみの一つとして父が素朴なお菓子を作って用意してくれました。読む本も厳選され、私が小学校に入って取っていた小学生の月刊雑誌は子供達が見る前に点検されて、漫画や擬人法の物語等全部糊付けされ読めないようになっていました。

また、SDAのライフスタイルを実践し卵乳菜食で育ちました。母が畑を耕して殆ど自分のうちで採れた新鮮な野菜を食べました。ご飯も七分米。三育の食堂でもその頃は七分米でした。たまに白米が出ると「エジプトのご飯だ!」とカレッジのお兄さん達が喜んでいたのを思い出します。旧約聖書に、昔イスラエルの民がエジプトから出てカナンを目指して旅していた時、神様が下さるマナに飽き足りずエジプトの肉を恋しがったとありますが、それになぞらえて言ったものです。また、間食も厳しく戒められていました。お陰さまで病気知らずでこの年まで来ることが出来ました。

《後編》 中学1年の秋、クラーク先生によってもたれた祈祷週で私はバプテスマを受けました。クラスの祈りの組、土曜日の午後の伝道活動等にも積極的に参加しましたが、特別に生まれ変わったクリスチャンでもありませんでした。父が教師をしていたため、はみ出したくてもはみ出せない、また教師の子供だからと言ってよい子ぶっていると思われたくない、かと言って何か出来る訳でもない、そのような心が揺れながらの中・高時代を過ごしました。あの頃よく読んでいたのがホワイト夫人の書かれた「青年への使命」でした。この本が好きで小さなノートに書き写して持ち歩きました。これによって励まされクリスチャンとして歩むべき道を教えられたような気がします。忙しい生活の中で唯一家族がゆっくりできるのはやはり金曜日の夜でした。その頃の教師の子供達は寮生活ではなく、自宅から通っていました。金曜日のベスパー後、それぞれのクラスの祈りの組が終わってから家に帰り夜中まで信仰について、人生について、また学校のこと等疑問に思っている事を出して話し合いましたが、その度に父は聖書や証しの書を持ってきては「聖書にはこう書いてある、証しの書にはこう書いてある」と何をきいてもすぐ聖書と証しの書の言葉とその箇所が返ってきました。文字通り生き字引でした。私達にとっては、週に一度のこの時間は一番楽しい時間であり、私達の信仰の軌道修正をしてくれていたように思います。

弟が三育以外の大学へ進学したいと言った時、父は信仰がなくなっては何にもならないと心配して二つの事を約束させていました。安息日を守って教会に行く事。毎日1時間は聖書の勉強をする事。大学では試験が土曜日にかかって受けられず追試をお願いしたり、留年しなければならなかったり色々大変な事もありましたが、神様のお恵みで卒業する事が出来ました。大学院に進み勉強していましたが、研究者としての道より、医者になりたいとの思いが強くなり、アメリカへ行く道を探っていました。そんな折、小さな小包が送られてきました。差出人の名前が無く、開けてみると日本式の大きな風呂敷包みがあり、さらに開いていくとその中にお金が入っていました。それは「アメリカに行くそうですが、その旅費に使ってください」と書かれてある70万円もの大金でした。

またちょうどその頃、メリーKというアメリカから来ていた学生宣教師と友達になりました。彼女が働いている英語学校のバイブルクラスに行ったり、一緒に旅行して歩いたりと親しく交わらせていただきました。暫くしてご両親が来られる事になりました。彼女はすき焼きが好きで「両親に是非グルテンのすき焼きを食べさせて欲しい」と言う事で、家に来ていただきすき焼きをご馳走しました。1週間位いらしたでしょうか。メリーKのお母さんが弟に「アメリカで勉強したいと聞いているが、私がスポンサーになって神戸アドベンチスト病院に送金するので是非医者になって神戸に帰ってきて働いて欲しい」と言われ、思いもよらない申し出に本当にビックリしました。それから弟は留学し、今神戸アドベンチスト病院で働かせて頂いています。「金も銀も我が物なり」(ハガイ2:8)と言われる神様は、人の心を動かして必要なものを与えてくださり、私達の人生を導いておられる事を体験しました。

私が20歳になった時、母を亡くしました。胃の具合が悪いとの事で検査に行ったら、胃に腫瘍ができていて後2年の命という事でした。こんなに元気な母が後2年で居なくなるという事は大きなショックでした。それから毎朝6時に母のために祈ろうと、すぐ近くの伯父の家にいた祖母が来て家族で讃美歌を歌い祈り合いました。

母は真面目な信仰を持っていましたが、父のように祈ったり聖書を読んだり教課を勉強する姿をあまり見た事がありませんでした。いつも忙しく家族のために働いている母でした。夜明けと共に起きて畑を耕し草取りをし、花壇を作り花を楽しんでいました。父はと言いますと、いつも机に向かっている姿でした。そんな父に母は「毎年毎年同じ事を教えているのに、何でそんなに勉強しなくちゃいけないんですか?」と文句を言っていました。父が家の手伝いをする姿はあまり見た事が無いので母も不満だったのでしょう。母は安息日の朝によく父の教課を借りて、 見ながら答えの聖句を自分の教課に書き写していたそのような母でしたが、それからは聖書を読んだり祈ったりする姿が度々見られるようになり、イエス様にお会いする準備へと導かれていきました。

前日まで働いていた母の具合が急に悪くなり、2年もしないで亡くなりました。辛い事でしたが、父の「お母さんは、罪との戦いから解放され、再臨まで眠っているんだから悩みも苦しみもない」という言葉に、本人にとっては幸せなのかもしれないと思うようになりました。

それからは私にとって再臨は、いつかあるであろう遠い将来の事ではなく、現実的で身近なものとなり、心からその日を待ち望むようになりました。色々な経験をする度に、この事もあの事も母に会って話したいと思うようになりました。また神様は、一人一人を救うためにその人その人にふさわしい準備の時を与えてくださる事を感謝する事が出来ました。

私は幼い時からカレッジまで、教会の中で育ち、キリスト信仰を空気のように吸いながら育てられて、今ここにいる事を感謝しています。「救われる器としてお育てください」との祖母の祈り、これはまた私が子供達のために祈っている祈りでもあります。父も2年前に亡くなりました。「親族一同一人残らず御国に入らせてください」と祈っていました。御国で会い見える時に、子供達、孫達と共に、救われた事を神様に感謝し、両親に感謝したいと思います。(2006年11月11日 信徒礼拝説教より)