ユースラッシュは学生がする文書伝道のことですが、今日はそのユースラッシュに参加しそこで経験したことを皆さんと共有したいと思います。
最近のことですが、ユースラッシュに参加したことがない友だちにユースラッシュについて話していると、その友だちは「ユースラッシュは自分のやることではないと思っている。学校企画で一斉トラクト配布をやったけど、その時に『ああ、これは自分のすることじゃない』と思った」と、話してきました。
皆さんは、ユースラッシュについてどのようなイメージを持っておられますか?
私は、今年の夏休みの光風台のユースラッシュが4回目の参加でしたが、初めて参加した高校1年生の夏、東松山のユースラッシュでは、覚えておかなければならないはずの文書伝道をするときに使う文言(キャンバス)も完ぺきに言えないまま、ユースラッシュリーダーのおかげで何とか訪問できているような状態でした。緊張するし、こわい人もいるし、暑いし、蚊に刺されたところがかゆいなど、いろいろなことを思いながら、人生初の文書伝道をやりました。
訪問中や訪問していないときでも、すばやく動いて、笑顔で本を紹介し、祈りながら一軒一軒進んで行くと、先のように文書伝道以外のことも考えていた私でしたが、本は少しずつ売れていきました。
そんな中、ある出会いをしました。お父さんと息子さんが道端で歩いているところに、リーダーと私で近づいて話しかけたときでした。小さな男の子が「3人はどこから来たの?」と話しかけてきたのです。私にはその男の子が言っている「3人目」を見ることはできませんでしたが、この驚くべき経験を通して確実に言えることは、文書伝道は私たちの力ですることではないということです。
ユースラッシュは、自分には向いていない、自分にはできないと思っている人。そうです、その通りです。できるわけがありません。なぜなら、ユースラッシュは私たち人間の力でするものではなく、神様がすることだからです。だからこそ、自分にはできないと思っている人にオススメしたいと思うのです。
話は少し変わりますが、私がユースラッシュに初めて参加したときは、私の家族は私と母しか教会に行っていませんでした。しかし、今は姉と兄も教会に行き、姉は1年前にバプテスマを受け、兄も最近天沼教会の牧師先生と聖書研究を始めました。それには、私がユースラッシュに参加したことも関係があると感じています。父はまだ教会には行っていませんが、いつの日か神様とつながる日が来ると私は信じています。
ここで、私が大切にしていて、また私が好きなことばをお読みいたします。
「一つだけ、天国でできないことがあります。今の地球でしかできないことがあります。地球での最後の息を吸った瞬間、二度と誰かにイエス様を紹介することはできません。私たちの心臓が止まった時には、もう誰かを永遠の命へと導くことはできません。
天国は私たちが想像する以上の幸せな、夢のような世界です。大きな立派な家、宇宙旅行、おいしい食べ物。天国では、今まで経験したことのない素晴らしい、愛に満ちた絆と関係を作ることができます。地球の学校と教育よりも、はるかに優れた無限の知識と教育を得ることができます。宇宙の不思議、謎をじっくりと勉強して理解することができます。翼を持って新しい、健康な体で、色々な場所へと飛び回ることができます。
しかし、二度と誰かにイエス様を紹介することはできません。私たちはよく、『後でできる』と言います。はい、後で大きなマンションを建てることができます。後で宇宙を旅行することができます。後で色々なことができます。しかし、後で誰かに救いの道を紹介することはできません。
今日、誰かにイエス様を紹介しましょう。
今日、イエス様のために生きましょう。」
私は、文書伝道をするときは、「誰かが神様を必要としている」「誰かが神様を求めている」。だから、一人でも多く神様を求めている人のところへ行くために頑張っていました。また、そのような人に出会うことができたとき、いつかは分かりませんが売った本によって、その人の心が変わります。確かに悲しいこともつらいこともありますが、神様のおかげで前に進むことができます。今の自分を変えたい人は、ぜひユースラッシュに行ってもらいたいと思います。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)
文書伝道は一言でいうと「種蒔き」です。私たちは「本」という種を蒔きます。しかしそれらを豊かに生長させるのは私たちではなく神様です。
神様のことを知らない人に神様のことを伝えるのはとても勇気がいることです。しかし、私たちが勇気を出して一歩進むとき、神様のことを伝えようとするとき、必ず神様は聖霊を送ってくださいます。これからも、神様のみ業を信じ、種蒔きという素晴らしい働きを担っていこうと思います。(11月9日の10分集会での証より)
私は、東京で生まれ広島で育ちました。家庭は一応仏教ですが祖父母の家に仏壇が置いてあるくらいで、ほぼ無宗教。神様も天国も地獄もないと思っていました。幼稚園ではキリスト教の私立幼稚園に通い、小学校は公立の学校に通っていました。
小学生の時、外遊びの日が苦手で、いつも図書館で隠れて本を読んでいました。友だちも一定の5、6人としか関わらず、他の人に話しかけられた時、いつもどう対応してよいかわからず困っていました。
そんな、人と関わるのが苦手な私も、中学進学について悩む時期になり、母に連れられ三育を知りました。初めて参加した学校見学会で見たのは、たくさんの人が同じ青いワンピースと黄色いよだれかけを付けて楽しそうに歌っていた姿です。それは聖歌隊のガウンだったのですが、当時の私には「変な服を着ているけど楽しそう、自分も歌ってみたいなー」と思いました。
その後も2回、学校見学会に参加しました。そこで接して下さる先輩がとてもやさしく、とても楽しそうだったので、私は三育中学への進学を決心しました。母も寮生活を経験しており、その母から寮生活をすると一生の友だちができると聞き、私も一生の友だちが欲しいと思い入学してきました。
こうして慣れない寮生活が始まり、月日は流れ、寮生活にも慣れてきた頃、私はある問題に直面しました。その問題によって、私はほぼ毎晩泣いていました。そのような時、ある一人の同級生が手紙をくれました。その手紙には心温まる言葉のほか、聖句がたくさん書かれていました。その一つをご紹介します。
「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう」(詩編50:15)。
この手紙をもらった時、私はその子が天使に見えました。私はこの手紙によって救われました。
一生の友だちが欲しいと思って三育に来た私は、三育で大切な友だちに出会うことができました。そして最近、イエス様が自分の友だちであることに気づきました。
私の心の中にずっと住んでくださるイエス様は、私にとって一生の友だちです。(11月23日の教会訪問での証から)
私の両親はSDAではないのですが、プロテスタントであったため、私は幼い頃から教会に通っていました。賛美をしたり大きな声でアーメンと言うのが大好きな子どもでしたが、小学校に入り、行事なども増え、しだいに教会に行かなくなりました。そんな中、父は、私が小学校5年生の時に病気で亡くなりました。父は亡くなる前に、「魂は永遠だ。また天国で再会できる」と言ってくれました。父との別れは本当につらいものでしたが、父の言葉を聞いて、そしてイエス様を知っていたからこそ乗り越えることができ、希望を持つことができました。
そんな私は、知人からの紹介で広島三育学院中学に入学しました。神様は信じていたもののなかなかバプテスマへの一歩を踏み出せませんでした。しかし、今こうして卒業が近づくにつれて周りの人との別れを思い、悲しくなることが増えました。そうした中、いろいろな人から「大丈夫。私たちは神様を知っているから必ず天国で会えるよ」と言われました。その言葉に勇気をもらい、また父の言葉を思い出し、「神様の子どもになりたい」「天国でみんなと再会したい」と強く思いました。ちゃんとしたクリスチャンになれるのか、自分の信仰心に不安を感じました。それで、その日の夜に、「神様、私はバプテスマを受け、あなたの子どもとなりたいです。しかしこんな信仰の薄い私がバプテスマを受けてもいいのでしょうか。不安です。どうか私にわかるようにはっきり教えてください」と祈りました。 すると、私はその夜に再臨の夢を見ました。
大きな地震がおき、天国に行けない恐怖を感じて後悔した夢です。夢の中の体験ではあったものの、その地震の揺れは夢などではなく実際に体に感じるものでした。
朝、友だちに地震があったか尋ねたものの、誰一人として「あった」とは答えてくれませんでした。本当に地震が起きて、気づいたのが私だけだったのか、夢だったかは今でもわかりませんが、これは、確かに私の祈りへの答えでした。これにより、私はバプテスマを決心することができたのです。
東先生から、バプテスマは受ける本人のためではあるけれど、それを見る周りの人にも影響を与えると教えていただきました。バプテスマの日、私の友だちが「バプテスマを受けたいけど、家族からキリスト教にそこまで深入りしなくていいと言われて反対されたんだ。けど、育美のバプテスマを伝えたら、やっぱりあなたも受けたい? これはあなたの人生だし、この三育で神様とかいろいろ学んだから受けたかったら受けてもいいよって、言われたんだ! 本当にうれしい!ありがとう!」と言って教えてくれました。
東先生が言ってくださったとおりでした。私はこのことを聞いて涙を流すほどうれしかったです。クリスチャンに対して不安を持っていた私でしたが、心からバプテスマを受けてよかったと感じています。
「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトス3:5~7)(11月23日の10分集会での証より)