中村八雲(高校3年)

賛美で神様とつながる

んにちは。僕は今高校3年生の男子コーテットグループ「anchor」のリーダーをしています。僕は、中学校から現在までコーテットのグループを組んで賛美をしているのですが、今回は今まで僕なりに活動してきて感じたことだったり、神様を感じられたことを証ししたいと思います。僕は、高校に入学する前から、友達と「高校でもコーテットをしよう」と約束して、入学を心待ちにしていました。しかし、中学校を卒業したくらいから新型コロナウイルスが蔓延し、僕たちの高校生活の最初の学期は中間テスト後まで自宅待機ということになり、このキャンパスに来たのは6月になってからでした。

 始めのうちは寮で隔離されていたので、音楽活動や部活もほとんどできず、まして賛美の個人グループの活動なんて全然できませんでした。結局、本格的に活動が始められたのは2学期になってからでした。メンバーを集めるにあたって最初は4、5人でやるかなと思っていたのですが、何だかんだでたくさん集まり、7人のグループになりました。

 練習を始めた当初は、人数が多いということもあり、集まりが遅かったので、リーダーを決めようということになり、じゃんけんの結果、僕がリーダーになりました。この個性の強いメンツを統率とか絶対無理だろうなと思いましたが、案の定無理でした。

 私生活からカオスで集まったらもっとカオスな人たちが、まとまって賛美なんてできるの? ましてそんなグループのリーダーが自分なのかと思うと、ものすごく気が重かったです。実際何度もトラブルはありましたし、やめてしまいたいと思ったこともありました。

 しかし、歌った後はいつも、何とも言い難い満たされた気持ちと、神様への感謝の気持ちが自分の中にありました。きっと、自分は嫌だとか責任が重いとか思っていても、神様を賛美して証しすることは、神様が祝福へと変えてくださるという体験が自分の中で柱になっていたのだと思います。

 自分の歌の技術を見てほしいだとか、かっこいい曲でかっこつけたいとか、コーテットでなくてもそういう気持ちは誰しも出てくるものだと思います。

 しかし、僕たちのタラントやできることはすべて神様が与えてくださったものであり、賛美は神様の栄光を表すため、ほかの人に伝道するために用いられるべきなのです。この軸がなくては賛美グループも、伝道活動も意味がないと思います。ヘブライ人への手紙6章19節「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくものなのです。」

 この聖句にでてくる「錨」とは、船が港などに停泊したときに流されないように海底に刺して船をつなぎ留めておく道具のことです。僕たちのグループ名「anchor」も英語で錨という意味があります。

 僕は普段あまり聖書を自主的に読みませんし、祈祷会とかもあまり行きません。このグループのリーダーをやっていても神様を賛美することより、リーダーめんどくさいなとか、重圧から逃れることばかり考えている人間です。しかし、そんな僕でも今までの生活を振り返ってみると、賛美によって神様につなぎ留められていたなと感じることが何度もありました。賛美は僕にとって僕と神様をつないでくれる錨でした。これから先、どこかに流されそうになっても、この錨でつながっていれば安心です。その安心感を得られたのは、仲間と続けてきた賛美のおかげです。

 賛美で神様とつながっていれば、いつか至聖所の垂れ幕の内側、より神様に近づいていけるのではないかと思います。今年は受験を控えている人たちがほとんどなので、コーテットグループの活動は今までよりは少なくなってしまうかもしれません。しかしこれからも僕は賛美を通して一人でも多くの人を神様につなぎとめる錨になりたいと思います。

森田美沙季(高校3年)

三育はやっぱりイイ

は中学生の時から寮での三育教育を受けていますが、いま高校3年生になって改めて三育はいいな、この学校で良かったと思っています。

 中学生の時から友達とずっと一緒にいられる寮生活は好きでしたし、ホームシックになったこともありません。全校生徒、先生と距離が近くて大きな家族みたいな感覚でした。そしてその感覚は、この広島キャンパスに来てからも変わっていません。しかし、高校生になると、進路について具体的に考えていかなければならなくなり、多くの生徒がそのことで悩んでいます。私もその中の一人です。自分が将来何をしたいのか、どんな人になっていたいのか毎日不安と焦りを感じながら、悩んでいます。

 ある日の夜、私は同級生の何人かで、将来について話す機会がありました。それまでは、進学先が決まっている友達は、進路でそこまで悩んでいないと思っていました。しかし、話を聞いてみると、それぞれ何かしらの心配事があって、道が決まっていてもまだ悩み続けているということがわかりました。また、たくさん共感できることがあり、自分も素直に不安を友達に打ち明けることができました。将来について状況が変わったわけではありませんでしたが、友達と真剣に悩みを相談できたことで、自分だけが苦しんでいるのではないと励まされました。

 また、別の日、ある先生と定期面接をすることになったのですが、その時の私は、「進学を急かされる気がして怖いな」と思いながら面接に向かっていました。しかし、先生は、全くそんな素振りではなく、逆に自分のことのように、一緒に悩んで心配してくれました。そのことにすごく驚きましたが、それと同時に、こんなに頼れる、何でも相談できる先生がいるのは、きっと三育だけなんじゃないかと思いました。

 私の場合は進路についてでしたが、誰でも、大小関係なく、それぞれの悩みを抱えて生活しています。悩むことは苦しいですし、簡単に答えが出ないものは、なおさら辛いです。でも、私はこのキャンパスで進路について悩めるのは感謝できることだなと思います。ここには、辛さを分かち合える友達も、一緒にお祈りしてくれる先生も、元気を貰える賛美も、神様の愛を感じられるものがそこら中にあるからです。これからも色々な悩みに直面すると思いますが、友達や先生、遠くでお祈りしてくれている家族、そして何より神様に頼って、相談しながら高校生活を送っていきたいです。

稲田 和(高校2年)

逃れる道が与えられる

しの間、証をさせていただきたいと思います。僕は、父が牧師なので、小さい頃から教会に通っていて三育という環境の中で育ちました。ですが、小学校5年生のとき、父の仕事の都合で、今住んでいる大阪に引っ越しました。そして大阪には三育小学校がなかったので、僕は公立の小学校に通うことになりました。

 そこでの生活は、初めてのことばかりでした。まず、当たり前ですが、聖書の授業がないことに驚きました。それまでは、1日1回は聖書を読んでいたので、それがないことに違和感を感じました。また、祈ることも普通ではないということにも驚きました。それまで普通に、授業の始まりや食事の時など、毎日のようにお祈りをしてきたのに、それが普通じゃなくなったことに困惑し、苦労しました。

 クラスの子から「手を組んで何をしてるの?」とか、「稲田君って、キリスト教なんでしょ? キリスト教って何するの?」など、いろいろ聞かれました。最初の方は「不思議な子だな」と思われて、クラスに馴染めない日々が続きました。なので、僕は毎日学校に行くのが少し憂鬱になりました。

 僕は、学校に行くのが嫌になった気持ちを隠したまま、学校に通い続けていました。そんなある日の夜、父に学校について聞かれました。僕は、隠していた気持ちをすべて話しました。すると父は、「無理に気持ちを隠すことはないよ。むしろ神様を伝道する気持ちで、色々話してみればいい。お祈りも普通にすればいい」と言われました。その時に読んだ聖句がありますので、読みたいと思います。マタイ5章13節から16節です。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 それからの僕は、少し気持ちが楽になり、学校にも普通に通うことができました。学校にいる時も、いつものようにお祈りをするようになりました。また、お祈りについて聞かれたり、教会について聞かれたりすることもありましたが、それからは正直にお祈りについて教えてあげたり、神様についての話など、色々教えてあげました。するとみんな、僕の話を受け入れてくれました。また、少しではありますが、教会に来てくれた子もいました。とっても嬉しかったですし、神様のことを伝道することは素晴らしいなと思うことができました。僕はこの経験を通して、小学校を卒業した日に「僕は、世界中の人に神様のことを伝えられる人になります」と宣言しました。

この経験は、今の自分の役に立っていると思います。あの時、違う環境で過ごすことの辛さを知ったので、いろんな人と関わることができるし、寮生活は常に友達と一緒なので、そんな中、人の気持ちを考えることができる人になれたのは、あの経験のおかげだと思っています。

 コリントの信徒への手紙10章13節には、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と書かれてあります。

 この聖句のように、神様は僕に耐えられるよう逃れる道を用意してくださいました。そして、最初は辛くて嫌だと思っていたことでも、神様は最終的に僕が世界中に神様のことを伝えたいと思うようになるほどに、良い方向に持って行ってくださいました。

 とても素晴らしい経験をすることができたなと、今では思っています。皆さんの中にも、辛いと思う経験をされている方がいらっしゃると思います。しかし、それを乗り越えた時、良かったなと思える日が来ると思います。ぜひ祈りを忘れず、生活をしていただけたらと思います。皆様の上に神様の祝福がございますように。

三馬大河(高校1年)

今こそ I will go

なさんこんにちは。今回証をさせていただけることを感謝しています。

 みなさんは今の時代をどのように生きていきたいですか? もうそろそろ世の終わりを感じる時代に、みなさんはどのように駆け抜けていきたいですか? 今、現時点で、ロシアとウクライナの戦争、2年間もの長さと共に過ごした新型コロナウイルス、差別問題、地球温暖化による自然災害、またそれ以外の災害など、私たちの不安を煽ることが毎日メディアを通して伝わってきます。

 みなさんは不安ですか? もしかしたらこれから先、今よりもっとひどい状況が待っていることでしょう。いや、来るでしょう。このような不安がいつ起こるのかわからなくても、このようなことが起こると、あらかじめ聖書は私たちに訴えてくれています。

 ルカによる福音書21:7~19の「終末の徴」をぜひ読んでみてください。このことを知っている私たちは、安心して過ごすことができていますが、これから先、このことを知らずに被害に遭う方や地域がたくさん出てくると思います。だから、今こそ私が前に出て、神様のメッセージを伝え、共に祈りあって励ます必要があると思います。

 また私たちは、今起きていることに焦らず、落ち着いて行動する必要があります。今、この時代だからこそできることがあると思います。それから、一つ忘れてほしくないことがあります。それは、いつも私たちの側にイエス様がいることです。このことだけは決して忘れないでほしいと思います。私たちがそのことについて祈れば、神様は私たちに何かしらの形で伝え、導いてくださると思います。

 最後に聖句を紹介します。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように」(ローマの信徒への手紙16:24)。

 このように、私たちには神様からたくさんの祝福と守りが降り注いでいます。だから今こそ “ I will go 私が行く ” ありがとうございました。