私は、クリスチャン家庭に生まれたため、幼い頃からキリスト教教育を受けてきました。しかし小学生までは、親が教会に通っていて、神様を信じているから私も信じるという感じでした。また、お祈りは食前、家庭礼拝の時、寝る前の計5回だけ。特に聖書は、礼拝で聖句を引くときのみで、もしくは引かないときさえありました。 そんな自分の生活や考えが変わったのは、中学に入ってからでした。祈祷週に来てくださった先生が、「祈り」について詳しくお話をしてくださり、私は、今のままではダメだと気づき、個人的なお祈りや聖書を読む時間を増して、いつでも神様に頼るようになりました。また、神様に真剣に祈り、そのおかげで神様の存在を身近に感じられるようになりました。
コロナウィルスが流行り、6月に始まった高校生活ですが、私はある聖句を目標に立てました。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ信徒への手紙1、5ノ16~18)という聖句です。
私は、この聖句のように、絶えず祈り、何があっても感謝でき、個人的に聖書を読む、信仰的なクリスチャンになりたいです。
この素晴らしい「三育」という環境で、周りの友だちと神様のことを分かち合い、神様との個人的な時間も大切にしながら、強い絆を神様と築いていきたいです。
僕は広島三育学院高等学校に入学できたことをとてもうれしく思います。僕は、この3年間をむだに過ごすのではなく、大切な経験をたくさん積むことができたらいいなと思います。神様が、僕にたくさんの学びを用意してくださっていることを期待しています。僕がこの高校生活で心にいつも止めておきたいみ言葉があります。 「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです亅(詩編119ノ9)。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレトの言葉12ノ1)。
この聖句と向き合うことは、僕にとって簡単なことではないです。神様を第一にする時、あきらめなければならないことは多いからです。僕は、気づかないうちに自分を優先順位の一番先に置いて、いつの間にか神様から遠く離れてしまうことがたくさんあります。そんな時すごく疲れていて、いつまでも満足していない自分に気づきます。しかし、そんな僕のためにイエス様が語ってくださった言葉があります。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのきびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11ノ28~30)。
この広島三育学院高等学校で、このイエス様が教える生き方を学んでいくことができたらうれしいです。神様のくびきは、疲れないで、喜び生きられるために、毎日僕に差し出されていると思いますが、その生き方を毎日選びたいと思います。
自分ではなく神様と周りに仕えることは神様のくびきだと思います。それは比べられないほどに喜びがあり、心が満たされるものだと神様は教えてくださっています。中学校にいた時以上に、まだまだ成長すべきこと、学ぶべきたくさんのことが用意されいると思いますが、この学校で自分も周りも幸せになる生き方をイエス様から毎日学びたいと思います。
「若いときにくびきを負った人は、幸いを得る」(哀歌3ノ27)
「打ち合わせもしないのに 二人の者が共に行くだろうか」(アモス書3ノ3)
この聖句にあるように、神様と散歩するような気分で、素直に、気軽に、楽しく、高校生活を歩みたいと思います。
コロナウイルス下、どんな安息日を過ごしましたか?
んな事が起こるなんて! 終わりの時に集会ができなくなると教えれれていましたが、今、自分が体験するとは!
新型コロナウイルスが世界を手玉に取っていますが、残りの民は強く生きています。自宅で過ごしたこの2か月余り、主の導きを感じることができました。
別の目的で始まった「百日の祈り」に私たちも参加しました。報じられる全世界の信徒の困難と、その中で活動する証に、どれほど励まされたことでしょう。
毎安息日、ネット礼拝に参加しました。東京中央教会など他教会の配信動画にも触れることができました。中でも、米国ロマリンダ・シニアチャーチでは、牧師が6回にわたって励ましを与えてくれました。牧師は講壇ではなく、書斎で、ノーネクタイ姿で凛々と説き、それを息子の同時通訳で聞きました。家族一同、至福の時を過ごしました。
ログ教会から、毎週説教のプリントを届けてくださり、温かい主の交わりを感じました。心からお礼申し上げます。
でも、やっぱり、皆で出席する教会、温かい笑顔の礼拝は――最高!! (渡辺慶子)