不思議なみ手に導かれて

投稿日: Sep 20, 2009 3:1:33 PM

(「はこぶね」157号より 渡辺恒義 名誉牧師記)

70をとうに過ぎたこの頃、時々一緒に牧師になった数名のことを思うのです。あの頃多数の求道者が教会にあふれているのに、戦中の迫害のため牧師が極端に少なかったので、未熟な私みたいな者も召されたのでした。あれから50年、結局停年を迎えたのは自分一人になってしまったなとしみじみ思うのです。

さて、三育に入る前は、仙台教会に通っていました。熱い伝道精神の柴田栄治先生と戦中の迫害をくぐり抜けた信徒方が印象的でした。その教会に行くきっかけは『預言の声』でしたが、そこに戦時中からの神の不思議なみ手を思わずにはおられません。昭和18年(後でわかったのですが、SDA大迫害の年でした)旧制中学の卒業を目前にして、どうせ軍隊にとられるのだからと、陸軍士官学校を受験し、19年に入校しました。その時長兄がその保証人として、偉い人がいいいだろうと黒須退役中将にお願いしたのです(後年、SDAとなられたこの方の告別式を行うとは夢にも思っていませんでした)。

そんなわけで、休日外出には時々荻窪のお宅に伺い、二人姉妹とも知り合いました。その妹さんが、戦後教団で働き、天沼教会に出席していることは全然知りませんでした(この方が黒須真也引退牧師夫人です)。

終戦後、私は陸士から復員して、旧制仙台工専に入りました(その頃、後にSDAになった先輩がおられたのです。今学院にいる高田姉のお父様で、昨年末お目にかかり感激しました)。ある日、黒須姉が『預言の声聖書通信講座』を送って下さったのです。初めて読む聖書、預言の声はどれも新鮮でした。また、『各時代の大争闘』のざん新な歴史の見方に魅了されました。後年同期の故森鴻治牧師が、「我々の時代の入信の動機は、病や事故など感動的なことはないからね」と言った通りです。ただあると言えば、昨日まで軍国主義を語った大人が、今日からは民主主義を語る姿、神だと信じた天皇が人間宣言をした事などで、人間不信に陥っていた事でしょうか。

その一方、学内で他教派の学友と聖書研究会を開き、その教派の牧師から、集る人が少ないと叱られたり、柴田先生の熱弁に感動する友を見たりしました。

そんな時に、エルドリッジ先生の講演会があり、先生自ら街頭に立ち、「私はエルドリッジです。来て下さい」とチラシを配る姿を見て、私も自転車でポスターを市内中にはりまくりました。教会の青年たちもそれぞれの働きをしていました。

エルドリッジ先生から私はバプテスマを受けましたが、数年前、この時一緒に受浸した方が東北の集会所を今も支えておられるのを知り、感激しました。しばらくして、仙台から及川吉四郎先生たちが三育に入学することになって、初めて三育学院を知りました。それから三育の事が気になり、三育へ転校したくなりました。ちょうどその頃、総会があって柴田先生は私を伴って下さり、そこで故原友安先生夫人に会い、「学校を終えたほうが」と言われても、学歴など気にしなかったようです。一方父は国立の学校を捨て、無資格の学院に行くことには大反対でした。それをとりなしてくれたのが、すぐ上の兄で、憲兵として危い運命を助かった経験から助け舟を出してくれたようです(この兄は、今聖書に興味を持っています)。

そんなわけで、費用は自分で用意するしかありませんでしたので、街頭で文書伝道をしました。『時兆』(現サインズ)を道行く人に勧めるのです。ある時共産党の青年と大激論になり、「20年後に会おう。時が証明するから」と別れたままになっています。戦後の混乱期で、本が少なく、終末への関心も深く、私みたいな者でもよく売れ、学費を手にすることができました。

さて、出発する時になって、父に内緒で母が手縫いの寝巻を用意してくれました。これは一生の宝物でしたが、東北特有の綿入り寝巻は都会の友人には珍しく、大笑いされて荷物の底にしまう情けない者でした。

その後、三育在学中のある時ふと父が期待していた学校を卒業しなかったことが、父を悲しませていたことは間違いないと思い、そのことについてのおわびの手紙を出しました。そのせいでしょうか、老父が教会に出席するようになりました。

こう振り返ってみますと、青年時代は自分で選ばねばならないと力み、そう実行するのですが、その背後に、親兄弟はじめ多くの人の涙と祈りがあり、それらの愛を見守って下さる神の愛があるのだと、いまさらながら感動させられるのです。