神様に守られ、導かれて

投稿日: Sep 20, 2009 3:9:45 PM

(2006年 「はこぶね」186、187号より、松浦道広記)

《前編》 私は、宝塚の地元の公立高校に通っていました。高校時代は、当時の風潮である無気力・無感動・無責任の三無主義に無関心が加わって四無主義が学内に蔓延していて、私もそんな空気に染まり、髪を肩まで伸ばしてダラダラとした日々を過ごしていました。

卒業真近の頃、親友が自殺をしました。人間ってあっけなく死んじゃうんだなあ。こんなに大きな事が起こったのに、心のよどみで事実がちゃんと受け入れられない自分を見て、とても怖くなったのを覚えています。こんな生活に流されちゃいけない、しっかり自分で考えられるようにならなくては、と。

ちょうど受験シーズンで、先々の就職のことなど頭に無く、四年間という時間の猶予が欲しくて和歌山県の中央奥、高野山という山の上にある大学を選びました。真言宗の総本山、仏教・密教の大学です。山の上とはいえ、幼稚園から小学校、中学校、高校、大学、そして大学院、専修学校まで全部そろっているというからすごいところかも知れません。

私がどうしてこの大学を選んだのか?

まず、自然の景色が最高なこと、家からそう遠くないけど、一人暮らしが出来ること。同じ高校から行った人間が一人もいないこと。希望通り文学部、それも国文学科があったこと。そして、両親が一番喜んだのは、学費、授業料が大変安かった事でしょう。授業料だけで年間30万円いかなかったと思います。弟の高校の授業料より安かったのを覚えています。この大学は特殊で、私立なのですが、真言宗の大きなバック・ボーンに支えられていて授業料が安かったのです。

大学1年目、お菓子に目がくらんで、茶道部と華道部に入部しました。1年生の時に誘われたものがもう一つあります。民主青年連合、みんなから『民青』と呼ばれていたものです。共産党員の養成組織のようなものだと思いますが、そういう集会や勉強会に引っ張られて行きました。憲法9条を守りたいという気持ちが何故か子どもの頃から強かった私は、その面で強く興味を持ったと思います。しばらくは、そういう人たちと交わっていましたが、彼らの主義にはなじめず、平和的な活動だけは参加していたように思います。

そんな折りに私は神様と巡り会うことになるのです。

高校時代からずっと、私は深夜ラジオのファンでした。当時、アグネスチャンの大ファンだった私は、アグネスチャンの曲を毎日リクエストしていました。そのため、いつも手元にハガキを置いてラジオを聴いていました。

夜11時から『ヤングリクエスト』(ABC朝日放送)、深夜3時から『走れ歌謡曲』、明け方になって宗教番組(ラジオ大阪OBC)が始まり、新興宗教や仏教の放送がありました。6時にカトリック、6時15分に『ルーテル・アワー』、そして6時30分になって、今までになかった染みとおるような音楽が流れてきました。そしてその音楽と共に、「お元気ですか。山形俊夫です」という声が流れてきました。その日はずっと徹夜でラジオを聴いていて、そろそろ寝ようかなと思っていた時でした。放送の中で、宇宙の話とその中には大きな神様の愛があるとのメッセージがあり、その話にどんどん引き込まれていきました。その後に『鴨田のおじさんのおはなし』が続き、またまた引き込まれていきました。とても話が上手で、あたたかいですね。放送の最後に『預言の声・聖書通信講座』のお知らせがありました。『ルーテル・アワー』でも無料の聖書通信講座のお知らせはあったらしいのですが、全然心に届かなかったのに、『ファミリー・アワー』の通信講座には惹かれるものがあって、ちょうど手元にいつものリクエスト用のハガキがあったので出しました。

『ルーテル・アワー』と『ファミリー・アワー』、一つ掛け違えれば私は今頃ルーテルの教会に行っていたかもしれません。でも、放送を聴いて説明はできないのですが、この二つがどこか根本的に違っているように感じました。『ルーテル・アワー』では感じられなかった何かが『ファミリー・アワー』からは確かに伝わってきました。それが何だったのか。今でも言葉では上手く説明できません。ただ、当時の私がずっと求めていたものが、この放送から伝わってきたような気がします。それから、放送のある日はいつも、『ファミリー・アワー』を聴くようになりました。

《後編》 通信講座を通して大阪センター教会を知りました。初めて大阪センター教会を訪ねたのが、なぜか金曜日でした。紹介された教会の場所を前もって確認したかったからです。最初に出迎えてくれたのが真境名さんでした。通信講座で紹介された由を告げると、ニッコリ笑われて、「今日は金曜日で牧師さんは不在です。どうか明日来てください。あなたを心から歓迎しますよ」と言われました。

私は翌日改めて大阪センター教会を訪ねました。少し緊張してドアを開こうとしたとき、その前に扉が開いて、ニューツと長身の外人のような男の人が満面の笑顔で「ようこそお越しくださいました」と出迎えてくれました。私は目をパチクリさせておそるおそる握手をしました。

この声どこかで聞いたなあ・・・。「あっ!鴨田のおじさんだ!ここは鴨田のおじさんの教会なんだ」と初めてわかりました。

鴨田先生に最初に言った言葉が「バプテスマを受けさせてください」でした。初めて教会を訪ねた人間の口から出たそんな言葉に鴨田先生はビックリされたのではないでしょうか。それでも、先生はニッコリ笑われて、「今日はお昼を一緒に食べましょう。その後ゆっくりお話をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」とおっしゃいました。大阪センター教会で、その日経験したことで私を一番感動させたものは、昼のパトラックでした。パトラックにはデザートがいっぱいあったのです。毎週、こんな風にパトラックだと言われて、それだけでも来て良かったなと感激でした。

午後、「松浦さんも聖書研究をやりませんか」と部屋に招待されました。そこには、石谷さんという女性がいて、しばらくはずっと一緒に聖書研究を受けることになりました。後に密田さんとご結婚され、数年前に娘さんが三育高校に来られていました。残念ながら娘さんが在学中にガンで亡くなられました。後から石谷さんの妹さんも教会に来られるようになり、後にバプテスマを受けられました。この春、高校三年生になられた田中奈央さんのお母さんです。

私は、出来る限り毎週土曜日、大阪センター教会へ行くようになりました。高野山から朝6時のバスに乗り、ケーブル、電車、地下鉄と乗り継いで、約3時間あまりかけて教会へたどり着きました。本当に今では信じられないのですが、いつも定刻出席を果たしていました。往復6時間はそれほど苦にはならなかったのですが、月4回教会へ通う交通費が2万円かかったのが大きかったです。当時4万円の仕送りが家からあったのですが、交通費で2万円がなくなると、毎月残りの2万円だけで食べていかなければなりません。高野山ではほとんどアルバイトがなく、また、山の上は物価が高かったので、月末など全くお金が無く、食べることが出来なくなると、友人がいるお寺に転がり込んでお寺の仕事を手伝って、ごはんだけ食べさせてもらっていました。それでも教会に行くことをやめようとは思いませんでした。

高野山まで来てキリスト教の教会に行くなんて、お前は不思議なやつだなと言う友達もいました。聖書に関して疑問を感じている箇所があるから、今度君の牧師に質問してくれないかという友達もいました。せっかくだから一緒に行かないかと誘うと、「いや、俺は寺を離れるわけにはいかないから、それはできない」と断られました。大阪まで行くのなら、ついでにコーヒーを買ってきてくれとお遣いを頼んでくる先輩もいました。

そんなある日、いつかの民主青年連合の人が、今度は正式に共産党へ入党しないかと、偉そうな人を引き連れて私の所へやってきました。私は神様に祈りながら、「私は、私の信じる神様に従って行きます。申し訳ありませんが、民主青年連合会との関わりは今日で終わらせていただきます」とその場を去りました。神様はいつも私を守り、導いてくれます。神様の存在を心から信じるようになりました。

当時は、まだ少しお酒を飲んでいましt。ヘアースタイルや服装なんかもよく教会のおばさまに注意されていました。あんまりいい求道者ではなかったのですが、口うるさい方も、外人も、子どもも、優しい先生も、聖書研究のメンバーも、みんな神様の中にいることを知り、教会生活はとても幸せでした。19歳で教会に行き始め、大学を卒業する3月にキャンプミーテイングで、畠中先生からバプテスマを受けました。畠中先生が私のバプテスマで足を滑らせて、私は危うく溺れそうになりましたが、それもまた笑い話で、バプテスマのいい思い出になっています。

未だに自分は不良クリスチャンだと思うのですが、そんな私でも神様はいつも守り、導き、愛してくれています。(3月25日 信徒礼拝説教より)