投稿日: Sep 21, 2009 1:7:22 PM
信仰生活を続けていく上で好まれて使われる言葉(キーワード)があるような気がする。愛、感謝、赦しなど、いくつかの言葉がそれぞれの信仰生活のさまざまな場面で使われているのではないだろうか。そのなかでもよく使われる言葉の代表格は、「ゆだねる」であろう。「この問題に関してはすべて神様におゆだねしていますから、もうあとは待つのみです」と言い切ってしまっている人によく出くわす。それはとてもすばらしい姿勢なのだが、カウンセラーという立場でそれを聞きながら、ある場合においてはその本人の決断を後押しすることにためらいを感じてしまう。それは簡単に言ってしまえば、自分の問題を認めようとせずに、自分が問題と感じる相手の変化を待っているような場合だ。「どうか相手がこうなるように、ああなるようにしてください神様」と、相手が自分にとって都合よく変わるよう祈り、ゆだねているのだ。それでいいのだろうか。
そこで聖書を開いて見ていると、ペテロ第一の手紙5章7節に「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」とある。、「思いわずらいをゆだねる」とはあるが、何もしなくてよいとは書かれていない。思いわずらい、つまり相手を嫌い、赦せず、受け入れられない気持ちである。本来はそこのところだけを神にゆだねるということであろう。
誰かとうまくやっていくための前向きな行動を邪魔する自分の否定的な感情はしっかりとゆだねつつ、自分がとるべき行動はしっかりとるというような、そのような姿勢が私たちには求められているのである。また「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」とも神様は約束してくださっている。なんとありがたいことだろうか。これで私たちはもうなにも思いわずらうことなく、そこのところをおゆだねし、自分が一番赦せない相手に、優しい気持ちのともなった行動をとることがスタートできるのだ。 (「三育はこぶね」186号より 田渕 裕記)