投稿日: Sep 21, 2009 12:59:27 PM
旧約聖書においてエホバと結びつけられた名前が八つあるといわれています。
モーセはシンの荒野でアマレクと戦ったとき、祭壇を築きその名を「主はわが旗」と呼びました。またギデオンはオフラのテレビンの木の下で主の召命を受けたとき「主は平安」と名付けています。このように信仰の先輩達はそれぞれが深い霊の感動を覚えた出来事に対して最も相応しい名前で主に呼びかけております。
この夏の旅行で何人かの信仰の証に接することが出来ました。信仰の戦いを最後まで立派に戦い抜かれた姉妹のことや、現役で今も元気に活躍しておられる先生のこと等、身近なところでの主の霊の働きにふれ、強い印象を受けました。
エゼキエルは捕囚の地にあってイスラエルの背教の歴史がもたらした結末に遭遇しておりました。「罪ある人間が生み出すものの実像を目の当たりにし」その絶望的な状況のなかにおりましたが、そこにあって彼は主との契約関係の回復の約束を仰ぎ望みました。彼は幻のなかで「新しいイスラエルの希望となり、終末の喜びとなる聖都」を見たのです。その名は「主そこにいます」(エホバ・シャマ)シャマは「満ちあふれていつもおられる方」という意味があるそうです。これは聖なる神が民の間に住んでおられるという約束を示す名前で、新約の「インマヌエル」(神われらとともにいます)と同じことを表わしています。異郷の地にあって、新しい神殿の礼拝、新しい神の民の創造というみ業の最終的な完成を示すこの幻を与えられたとき、エゼキエルはどんな感動でもって「エホバ・シャマ」の名を口にしたことでしょう。
主は、今日ご自身の満ち溢れた臨在を約束しておられます。主の衣はその長い信仰の戦いの歴史において、その時々に最も相応しいご臨在が与えられ、感謝の叫び声を上げてみ名を賛美してきました。私たちはどんな名前で主を賛美するでしょうか。「エホバ・シャマ」。主はいつもそばにおられます。主の来臨を前にして私たちもこの信仰の証に加わりたいものです。(「はこぶね」第101号より、岡 岑生記)