心の清い人は幸いである。その人は神を見る(「マタイによる福音書」5章8節)

投稿日: Sep 21, 2009 1:5:23 PM

初期のキリスト教徒はローマ帝国による激しい迫害に直面し、信仰維持は文字通り戦いでした。しかし、4世紀になってキリスト教が公認されるや、信仰の戦いも緊張感もなく、むしろ世俗主義にどっぷりつかり始めました。平和な時代に入ったころから、群れを離れてシリアの荒地に一人行き、危険、孤独、貧困の中でひたすら神を求めて祈る熱心な“聖者”があらわれました。これが修道生活の始まりです。彼らの目標は、罪深い世にあって、世俗の汚れに染まらず、またこの世に目を奪われず、ひたすら神を見て生きることを目指したのでした。のちの修道院は同じ気持ちを持った人たちが集まって形成されたのです。

私たちは毎日、現実にこの世に生き、この世のことに心を惹くさまざまな誘惑に囲まれています。こうした中で心を清く保ち、神を仰ぐ生き方は容易ではありません。先駆者たちが純粋に求めた清い心、そして神を見る体験にどれほど私たちは添って信仰生活に生きているでしょうか。瞑想の課題にしたいと思います。ただし、修道院の壁の内部に体はあっても、罪の誘いの苦悩を修道僧たちは認めました。心の清さを求めることは天国まで続く祈りの課題であることを覚えたいと思います。(「三育はこぶね」185号より 曽根田健二牧師記)