投稿日: Jan 25, 2010 8:33:40 AM
今、この原稿を書いているのは、書斎兼台所兼食堂兼応接室で、直接外へ出られる大好きなガラス戸があります。心も体も小さい私には、一室で何もかもできるこの部屋が大のお気に入りです。ガラス戸越しに眺める景色は、四季それぞれに趣きがあり、そのつど感動します。最近大いに感動したことがありました。
小さい菜園の向こうに松林があって視界が妨げられていたのですが、近年当地を襲っている松枯病にやられて松が枯れてしまいました。それで伐採してもらったのですが、そしたら眼下に数キロ先の山々が見えるようになりました。波うつ稜線、四季の彩り、朝夕の趣き、霧やもやでかすむ山影が、表情を変えて語りかけるようになりました。
先日、山影もはっきりしない空に、太陽の光がさしてきました。やがて雲と空が赤味を帯びてきます。暗い山影と紅に染まったたなびく雲、一幅の名画を見るような感動を覚えました。その時です。山影に「十字架」が、突然出てきたのです。ゴルゴダの丘を見ているようで、主のゆるしの喜びが全身をかけめぐりました。
「ハレルヤ、アーメン」と賛美がわき上がりました。まさに至福の一時でした。(実は、前景の鉄柱の上部が目に入っただけでしたが。)
そう言えば、最近教育の奥義についての文章を読みました(朝日新聞Be, 10月3日)。磯田茨城大准教授が次のように紹介しています。一人は江戸後期、門人三千、三大講義名手に数えられる佐藤一斉です。学問をするのに、強制されるのではなく、「必ずや心に感興するところあって、これをなす」。つまり、強制ではなくて、自分から感動して勉強したいと思わせる事が大事だというのです。ではどうすれば感動させられるか。まず教える人が感動することだというのです。たしかに、自分の好きな教科は、熱をこめて話す先生のせい、あるいは「よくやったね」というおほめの言葉だったりします。
もう一人、日本が生んだ世界的数学者といわれた岡潔(1978年没)は、数学の発見は、昆虫採集の子どもがみごとな蝶を見つけた時の「発見の鋭い喜び」の感情によると言い、頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっていると言いたい」と言う。感動が真理発見にとっても大事だと指摘しています。
なるほど。聖書を読むということは、字を読むのではなく、その中あるいは裏にあることにふれて感動することではないでしょうか。たしかに聖書の言葉が忘れられなくなるのは、それを語る人の感動が伝わった時のような気がします。とすれば、私が朝ごとに山の十字架を見て感動しているのも、聖霊の働きかなと感動してしまうのです。み言葉に感動するために、大自然に、幼い子の表情、言葉にも感動したいものです。
(2009年12月発行 「三育はこぶね」205号 渡辺恒義名誉牧師 記)