投稿日: Sep 21, 2009 12:56:31 PM
自宅裏のがけから落ち一ヶ月入院した町内の独居婦人が「全然覚えていない。歩けないはずなのに玄関までどうして行ったのか、余り知らないあの方の番号をどうして廻せたのか、今でも不思議!」と話されました。聞きながら、「自分の時もそうだったな」と思いました。二階の高さから落ちて、皆様から「こわかったでしょう、痛かったでしょう!」と同情されたのですが、落ちた時も、倒れた時も一切記憶にないものですから答えられませんでした。
人間には危機の時忘却機能が働いて、自分を守り、深刻な危機を乗り越えさせるように思います。
病院に運ばれ、頭のけがを心配した医師が問診をすると、「はっきり応答していた」と家族が証言するのですが、本人は全然覚えていないのです。それ以来、『死』とはこんなことかと思うようになりました。寝たきりになり、見えなくなり、声も出なくなりますと、周囲は「苦しいだろう、しんどいだろう、淋しいだろう」と同情しますが、本人は違うのではないでしょうか。聞こえているのですが、忘却機能が働き、安らかさが訪れていると思うのです。
ですから、「主にあって死ぬ死人は幸いである。・・・労苦を解かれて休み」(ヨハネの黙示録14:13)と聖書は約束しているのです。一生涯働き続け、疲れてきたからだに、主は「もう働いた。ゆっくり休みなさい」と語りかけられるのではないでしょうか。それが永遠の福音であり、生きている時だけでなく、最後の時にも平安を与えるものです。
指で数えられる年月しか残らなくなった自分の人生ですが、『死』という人生最後の大仕事に主が立ち向かわせて下さっていると感謝しながら、こんなことを考えている私です。(「はこぶね」175号より 渡辺恒義名誉牧師記)