投稿日: Sep 21, 2009 12:58:39 PM
父は洋服の仕立て屋をしておりまして、31歳頃にSDAのクリスチャンになり、8年前に77歳で亡くなりましたが、職人気質であり、とても繊細で厳格な人間でした。3人の子供の教育に対しては、幼い頃より、お茶碗やお箸の持ち方、靴の脱ぎ方揃え方、言葉の使い方等々日常生活において、それはそれは事細かにうるさく厳しく躾を致しておりました。怒鳴られたり、引っ叩かれたりは日常茶飯事で近所でも評判になるほどの怖い父親でした。
私が20歳を過ぎ、親元から離れると今度は手紙による教育が始まりました。最初の5年間の手紙は処分してしまったのですが、それ以降の手紙はA4サイズのファイルに3冊分ありまして約20年分になります。細かい文字で便箋にびっしり書かれているその内容は、人間として成長出来ていない私を憂えてのもので、ほとんどが忠告、叱責、譴責であります。本日のお話を考えるに当たり、昨夕数年ぶりに読み返してみました。今、私も親になっており、これらの手紙を書いた時の父親の心情がよく分かる気が致しました。その当時この手紙を受け取った私は、この親の思いが疎ましく思えるような気持ちだったのですが、父は私に何事にも揺るがない強い信仰を持って日々罪との戦いに勝利して天国を目指す人間になって欲しいと願って一生懸命であったのだと今は分かるのです。
この手紙の一文を紹介させていただきます。私が26歳の時のものです。
「あなたは今一つの成長過程にあるのです。人間は死ぬまで成長し続けるのであり、それも人生の旅路の目的で、例えば年令で表現するならば、10代には10代の学びがあり、50代には50代の学びがあり、50代の学びは10代や20代では出来ないのです。その事をも表わしているのが『天路歴程』です。
10代で経験したのと同じような経験を20代でも30代でも50代でも経験しますが、50代になっての経験は10代の経験では学べなかった学びをするのであり、しかもそれは50代でなければ悟る事の出来ない学びです。自己の罪を痛切に、絶望する程に思い知ると言う事は進歩であり成長であり、救いに近づいている事なのです。『わたしの最も弱い時にわたしは強くされる』『わたしの最も弱いところに主の愛が現される』等の聖句から深く考えて下さい。自己の醜さ、弱さ、罪の深さを知る事は益であり、必要なのです。」
この父のもとに生まれて天地創造の神様への信仰を教えてもらえた事、これは父からの最高のプレゼントであり、この父を与えて下さった神様に賛美と感謝を捧げたいと思います。(「はこぶね」177号より、小林真知子記)