投稿日: Sep 21, 2009 1:0:1 PM
つづれなるままに、来し方を振り返れば、子育てを通してしか学べなかった事柄が思い出され、これらの経験を与えて下さった神様に感謝せずにはおられない。子供達に対してなし足りなかったことや、私の弱さのゆえに子供にマイナスの影響を与えたことも多々あるが、今となっては一切を主の御手におゆだねするほかはなく、与えられた経験の中から思い出すままに書いてみたいと思う。
上の子には一才半まで授乳していた。「おっぱいですよ」との呼びかけに、遊んでいる最中でも「キャッ」と喜びの声をあげて、私のひざめがけてヨチヨチと走り込んで来る。その姿が可愛くて、面白くて、それを見たいばかりに?止められなかった。しかしある日、ついに母からの電話で、「もう授乳は止めた方がいい」と進言され、私はハタと困ってしまった。以前に聞いた、物心ついた子供に断乳する時の親子の苦闘物語が頭をかすめた。お乳にこわい絵を描いて、子供が近づけないようにするとか、乳首にカラシを塗ったとか、とにかく母乳を欲しがって泣き叫ぶ子との根気比べだというような話である。しかし私は、子供が悲しみ苦しむ姿を見るに忍びなく、そんなことになったら、私には突き放す自信はなかった。また、子供の恐怖心を利用して従わせることもしたくない。それに何より、子供が母乳を欲しがって泣き叫ぶことをさせたくなかった。子供にとっては一回一回の体験が学習となる。自分の欲求を満たすために泣き叫ぶということは、わがままな泣き方への門戸を開くことになる。そんな練習はさせたくない。かと言って断乳に踏み切った時の赤ん坊の出方も予測がつかず、一体どんな事態が待ち受けているのかと考えると不安でいっぱいだった。それから数日間、私は断乳の方法について大いに悩み、祈り、考えた。
そんなある日、子供におきまりの幼児向けの絵本を読んでやっていたとき、一つのページに目がとまった。男の子と女の子がエプロンをしてイスに腰掛け、食事をしているおなじみの場面である。食卓には、パンや果物、そしてコップに入ったミルクがあった。「これだ!」という声が聞こえたようだった。その日から私は、ことさらにこの食事場面に力を入れて読み聞かせた。「イエス様、おいしい食べ物をありがとうございます。アーメン!いただきまーす。パンを食べましょ。モグモグモグ、あー、おいしい。次はヨーグルトよ、ツルン、おいしいなあ。今度はミルクを飲みたいわ。私もう大きくなったからおっぱいはいらないの。コップでミルクを飲みたいの。お姉さんになったんですものね。コップを持ってゴクゴク、あー、おいしい!私、ミルクが大好きよ。もうおっぱいはいらないわ。」
それから一週間くらい、毎日、一日のうちに何回もこのセリフを読み聞かせた。そして、もうこの場面が子供の頭に刻み込まれただろうと思ったある日、私は絵本と同じ場面を実際に設定した。お祈りをして、本と同じように食事を進めていき、いよいよ切り札を出した。「○ちゃん、もう大きくなったから、コップでミルクを飲みましょうか。もう、お姉さんだものね。ゴックン、あー、おいしい。おっぱいよりずっとおいしいネ。」赤ん坊は私の言葉について、コップでミルクを飲み、そしてそれがオッパイとの決別の式典となった。あれ以来、子供は大好きだった母乳を、ただの一度も欲しがらなかった。
相当な戦いを覚悟していた私にとって、この幕切れは驚きだった。確かに、神様が私の心の願いに応えて、助けて下さったのだ。この経験を通して、私は、赤ん坊に対してでも、その知性に働きかけて納得させることの重要性と、そのようにする時に赤ん坊も赤ん坊なりの自尊心をもって協力してくれるということを教えられた。また、たった一才の赤子であっても、最早、親の付属物ではないということ、既に、物事を理解し(「私は大きくなったからコップでミルクを飲む」)、意志することのできる存在(「もうおっぱいはいらない、さようなら」)であるということを、親子の最初の危機状況の体験を通して、はっきりと学ばせられたのだった。(「はこぶね」97号より Y姉記)