投稿日: Sep 21, 2009 12:54:36 PM
自分は登山が好きになれないし、得意でない。頂上を極めた爽快感は計り知れないものがあろう。でも、苦労して、ハアハア苦しい息をして、汗をかいて登り、山を下る帰りもひざがおかしくなるほど疲れてなお山登りを厭わないのはなぜか不思議に思う。青年部長という仕事から私も仕方なく富士山に2度登ったことはあるが。
英語の言葉に”センス・オブ・アカンプリッシュメント”というのがあるが、「達成感」と訳すのがよいと思う。人は自分のしていることに意味を見出し、何かを成し遂げたことに充実感を覚える。ナチス・ドイツは捕虜に穴を掘らせては埋めることを繰り返させた。旧ソ連時代、シベリアに送られた政治・思想犯たちは穴のあいたバケツで水を運び、ドラム缶に水を溜めるように命令された。ほとんどの人間はいつか気力を失うか、発狂するか、動物のように素直に従うようになったという。
一体自分のしていることに意味があるのだろうか・・・という絶望に落ち込む試練が教師にもある。中高生の教育という大事な使命を負っていながら、力不足もあって、何ごとも理想のようにゆかない。思うようにならない。牧師さんたちも懸命に働いても期待するような結果を見ることができないで悩んでいるかも・・・。
1月26日(2003年)、高校生90名が卒業していった。「いろいろ反発したが、やっぱり広島三育はいちばん」「ここで人生を見つけた」とべスパーであかしし、「ありがとう、先生もがんばって!」と声をかけてくれた。卒業最後の土壇場の言葉で苦しい息も、汗も、涙もすべてが喜びに変わった。別れは辛かったがさわやかな達成感が私の心をよぎった。(「はこぶね」169号より、曽根田健二牧師記)