投稿日: Sep 21, 2009 1:23:40 PM
時々子供が嫌いだという人がいる。そして、十中八九そのような方は、あまり楽しい子供時代を過ごせていない。嫌だった子供時代の自分の姿を、他の子供の内に無意識に見てしまうような心理が働くのだ。
これに似たようなことなのだろう。私もこの三育で三年間働かせていただく前までは、どうも中学生、高校生は青臭く、いつも何か不満を持っているように思え、あまり好きだと思えなかった。二十数年前に私が卒業した三育が、まだ荒削りで、良いところもあれば、そうでないところもあり、それが混在する中で、そこから学ぶべき意味を見出せる人は何かを得られたが、そうでない人にしてみれば、乱暴でもあり、また辛い時代であったように思える。
卒業後、三育教育には感謝しつつも、自分の青春時代の未終結の問題を内に秘めていたのだろう。そのイメージを今の思春期の年齢の子達に投影し、彼らを好きになれなかったのだ。これは私だけでなく、過去のどの時代に卒業した方々も、何かしらの、その当時の生徒達の雰囲気を塗り替えられないまま、今現在の三育教育というものをとらえているのではないだろうか。
ところが、実際に三育教育の現場に戻り今の生徒達と接していると、彼らはとてもかっこいいのだ。三育教育が自分の卒業した当時のまま固定されているのではなく、時代の流れと共に、確実に円熟し、発展し、成長しているということがわかる。彼らがどのようにかっこいいかというと、自分の高校時代のように、破壊したり、反抗したりという、それはそれで意味もあるのだが、しかし無駄とも思えるエネルギーの使い方をしない。そうでなく彼らは、ためらわず祈り、ためらわず賛美し、ためらわず奉仕し、ためらわず挨拶をし、ためらわず人に優しくし、ためらわず行事の役員に立候補し、ためらわず寮運営に参加し、休み中はためらわず地元の教会で奉仕し、と、自分のふて腐れたダサイ高校時代とはまったく違っていて、かっこいいのだ。憧れてしまうくらいだ。今の彼らを見てください、あなたの後輩たちは、こんにもかっこよくなっています。自分の卒業した三育教育にもう一度、誇りを持って下さいと、卒業生全員に伝えたいのだ。
三育教育は、卒業した者だけを変えるのではなく、再臨使命のミッションを帯び、これからの社会を変えていくのだ。この宇宙規模の使命を帯びた彼らは今円熟している。イチジクの枝は柔らかくなり、葉は伸びている。その時はもうすぐそこなのだ。
三育OBとして、教員とし、クリスチャンとして、今の「かっこいい生徒達」に学びたい。(「三育はこぶね」198号より、田渕裕スクールカウンセラー記)