投稿日: Sep 21, 2009 1:3:18 PM
「先日妹に殻のついたドングリをもらいました。途中の山で拾ったとのこと。いつも家の中で過している私には最高のプレゼントです。お手紙ありがとうございます。生かされている喜びとありました。私にはよく神仏に、自分にこれ程の不自由と苦痛を与えて、何を教えようとしているのかとか、どんな悪事を働いてこのようなひどい罰を受けているのかなど、恨み心一杯で尋ねてみたい心境になります。その反面、嬉しい事や有り難い事があると、生かされていて良かったなどと勝手な事を思っている自分もいます。最終的にはこの現状が私に課せられた運命だと諦めて、自分との折り合いをつけています。今は今日一日を悔いのないものにするだけが精一杯の私です。またお便りをさせてくださいね。」
この方に出会ったのは、ご子息の結婚式の時でした。最前列に四肢マヒ用寝台型車椅子のこの方をみて感銘を受け、言葉をかけました。以来この方の救いと平安を祈り続け、文通も続いています。その便りを紹介します。
「今日はとても嬉しいお知らせをします。先日、夫婦で義父のお見舞いに山口の病院まで行きました。実は夫の両親とは折り合いが悪く、病気を理由に一度も会っていません。ただ言い訳に障害者用パソコンで月二回近況報告を送っていました。しかし心の中では、これではいけないと自問自答していました。今回見舞いの話が出た時、このチャンスを逃したら一生後悔すると強く思いました。病室で再会した義父母はかつての面影・勢いもなく、顔色はさえずやせていました。突然の見舞いに驚きながら、涙を流して喜んで下さいました。帰り際に握手をし、再会を約束しました。時間と病がお互いの凍りついた心を優しくいやしてくれました。当日は親孝行とドライブができて心地よい疲れと共に床につきました。」
とりなしの祈りを主はきいて下さいます。この証をきいて、とりなしの祈りはやめられなくなりました。(「三育はこぶね」183号より、渡辺恒義名誉牧師記)