投稿日: Sep 21, 2009 1:23:7 PM
自己紹介もかねて私の宗教遍歴を書かせていただきます。
私は1939年に大阪に生まれました。父は大阪で商売をしていましたが、仕事上の心配や不安は絶えることなくありました。そのためか、父は私たち子供を連れて神社仏閣に熱心にお参りに行くのが常でした。商売の神えびすさんや菅原道真を祭る天神さん、またご先祖のお墓参りなど信心深い家庭でした。考えてみますと、我々は神様にお参りに行くのも、自分の仕事や家庭や健康など、自分の欲というか、利益をかなえていただきたいとの下心があって神を拝んでいるのが現実です。私の母はさらに多くの神々を拝んでおりました。あまり多くの神々を拝んでいましたので、ご利益のない神々を捨てる必要もありました。罰があたらないで捨てられるお寺を見つけてきて、その寺へお払い箱になった神様を持っていって、何がしかのお金を払って引き取ってもらいました。多くの家庭でも多かれ少なかれ見受けられる光景です。
偶像の神とはそんなものなのです。必要がなくなったり、役に立たなくなったらポイと捨てられてしまうのです。昔から世界中の人から読まれ、愛されている本と言えば聖書ですが、その中に偶像の神について、「偶像はきゅうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるに及ばない。それは災いをくだすことができず、また幸いをくだす力もないからだ」(エレミヤ書10章5節)と書かれています。何が起こるかわからない不安定な世界に、私たちは住んでおりますから頼りになる神様に出会いたいと思うのは人間の自然な思いです。聖書は続けて、天地を創造し、我々を造ってくださった神は生ける神であると宣言しています。「主はまことの神である。生きた神であり、永遠の王である。・・・・・天地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る」(同書10章10~11節)。
偉大なる神は広大な宇宙から私たちの身のまわりのきれいな草花まで愛を持って創造されました。「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない」(使徒行伝17章24~25節)。我々日本人は天地を創造された、生ける神を知らなかったために神様のご品性を誤解していました。まことの神は罰を与える恐ろしい神ではなく、我々を愛して、我々の幸せを願っておられる神です。
「神は愛である」(ヨハネ第一の手紙4章8節)。私もこの神様との出会いを通して、人生の目的を知り、お伝えしたいと思い牧師の道を選びました。心から感謝しております。
読者の皆様がまことの神様をもっと知り、神の思いを深く学び、神様のすばらしい御祝福にあずかられますようにお祈りするものです。(「三育はこぶね」197号より、松並孝次郎牧師記)