投稿日: Sep 21, 2009 12:44:5 PM
私には1節から6節まであるのにどうしても最後まで歌い切ることのできない歌があります。その理由はあまりにも長いからでもなく、音が高過ぎて声が続かないからでもありません。歌の途中でたくさんのことを思い出し涙が出てきてしまうのです。その歌は賛美歌404番、私が広島三育学院に就職する直前にガンで亡くなった母の愛唱歌です。葬儀の時、父が静かに「お母さんといえばこの歌だな」と言って一瞬の迷いもなく、特別演奏として選び、ある教会員の方に歌って頂いたのを昨日のことのように思い出します。
思い起こせば母の一生はこの歌の歌詞そのもの、いやそれ以上に辛く険しく、神様に嘆くこともあった日々だったのではないかと思います。私はその姿を知りませんが、母は私を産む前まではピアノや洋裁、とにかく何でも器用にこなす人だったそうです。しかし私を産んですぐ、脳の病気に侵され右半身の麻痺を負って生きていくことを余儀なくされました。父と母と当時8歳だった姉の、誰にでも与えられそうな平凡は、その時から否応なく奪い去られてしまったのです。まだ幼い姉と仕事を抱えた父の苦悩は想像を絶し、涙が出てしまうほどですが、その思いの全てを子供の私も計り知ることはできません。
本当に神様の許すことは、時として「悲しい」などという言葉では足りず、血のにじむほどの思いを人間に課せることがあります。
今でこそ私は母についてこのように語ることができますが、小学生の頃などは、「どうして私のお母さんだけ手足が不自由で、言いたい言葉がなかなか出てこないのだろう」と、もどかしい思いがあり、一緒にいるのが恥ずかしいことが度々ありました。それでも母は、体が痛くても私に何かを手伝うことを強いたりせず、今思うと自分でやればよかったのですが、毎週金曜日、私が一週間履いて汚れた上履きを一生懸命洗ってくれました。そして私が弾くピアノや書道でもらった賞状を額に入れ、「M子は何でも上手にやる」と私が恥ずかしくなるほど人に自慢していました。とにかく母はその命が余り長くないことをまるで知っていたかのように、少しでも多く私を誉め、心配し、愛してくれました。それは言葉からだけではなく、母を見ているとわかるのです。今思えば痛いほどに・・・。今なら母のできないことは何でもしてあげようと心底思いますが、いくらそう思っても、もうどうすることもできないのが、悔いても悔やみきれない一生の後悔となってしまいました。
今私が母のためにできるのは、便利な機械が氾濫する中でも、母から与えられた何でもできるこの手で目の前の仕事をこなすことです。たとえそれが遠回りでも人より時間がかかってもいいのです。それが私の喜びなのですから。
「山路こえてひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし。
・・・されども主よ、われいのらじ、旅路のおわりの ちかかれとは。」(賛美歌404番)
(「三育はこぶね」173号 S姉記)